日本って本当に便利な社会だ。個人主義、人に関わらなくても生活は十分できる。ただ金がないと生活ができないことも事実である。金を作るとは個人主義ではできにないが、でも仕事をして報酬を得ると言うことだけにがんばれば、他に何もしなくてもいいことになる それはまわりにいろいろな便利なものがあるからである。本来、不自由な生活に対してこんなものがあれば豊かになれるとしてがんばってきたはずなのだが、そして確かにいろいろなものが満ち溢れ、先進国としてこれまでは認めてもらってきたが、果たしてそれで本当に幸せなのだろうか。 少なくとも途上国の状況を見れば、彼らに何が必要かと言うことはすぐにわかる。例えば食料や衣服、住居だ。でもそうした情報は毎日、ネットでも調べられるのに、そこには分かりきっているものを差し伸べる企業は少ない。 もっとすすむと、東南アジアや中国をはじめとして低賃金で働いてもらっている生活風景を見ても、彼らに何が必要かと思えばいろいろなものが思いつく。でもそれは先進国の論理が働き、彼らに仕事をさせて、報酬を払うことで、その地域に見合ったものを買ってもらうことしかない。いきなり日本人と同じ生活にはならない。これもなぜだろうか。 さて先進国にいると回りの状況を当たり前と思うが、物があふれているがために、あまりにもそれに頼りすぎていないだろうか。いや今は情報にも頼る傾向がある。それはテレビ番組の情報がそうである。その情報だけで状況を判断していることもある。 コミュニケーションは本来、口頭でも会話で成り立つものだ。よって中国人観光客が来ると中国語が話せる従業員を雇うが、日本では日本語が伝わるのに会話もなく買い物が出来たり支払いが出来たりしている。 これがネットでももっとすすんで、ネット上での購入では相手はいない。相手は機械である。会話もなくても買い物ができる。 電話も日本はなぜかテキスト会話が主流である。 本来、この不便さがあって、それに必要なものを供給していけばよかったが、今や狭い部屋にはいろいろなものがそろい、それに頼っている生活がある。 これで経済発展をするということは何を意味するのだろうか。国内需要で農業が取り上げられているが、なぜか漁業や林業はあまり話題にならない。でも借金に頼る生活であれば、別に内需を増やさなくても金で解決できることも事実である。 でも今までは製品を売ってその代わりに食料やエネルギーを得ていたが、その製品が中国や韓国が担当するとなると、日本は今後食糧もかえなくなるのだはにだろうか。 まあそれはいいとしても、今の生活を変えられないというが、何が本当に便利なのだろうか。今の状況が究極なのだろうか。 今後いろいろな便利な生活空間が出来たとき、果たして我々の生活はゆとりが出来ているのだろうか。他が残業でもやって、我々がゆとりのある生活を送っているのであれば、あるいは社会保障も充実していれば問題ないが、今は自分たちで作らないと便利な社会ができないということにあっている。店も24時間あけていないとやっていられない。残業もしなければならにない。 これで便利なものを買って果たしてそれを十分使った生活って出来ているのだろうか? それよりも何もなくただぼっといているほうがよっぽどストレスもなく個人主義からすれば。自分の時間を自由に使えるという意味では一番のゆとりなのかもしれない。 不便さをいかにつくるかが今後必要になるのではないだろうか。 .
" />

Home » ニュースに関するコメント » Currently Reading:

不便さが人間のコミュニケーションを作る

August 8, 2010 ニュースに関するコメント No Comments

日本って本当に便利な社会だ。個人主義、人に関わらなくても生活は十分できる。ただ金がないと生活ができないことも事実である。金を作るとは個人主義ではできにないが、でも仕事をして報酬を得ると言うことだけにがんばれば、他に何もしなくてもいいことになる

それはまわりにいろいろな便利なものがあるからである。本来、不自由な生活に対してこんなものがあれば豊かになれるとしてがんばってきたはずなのだが、そして確かにいろいろなものが満ち溢れ、先進国としてこれまでは認めてもらってきたが、果たしてそれで本当に幸せなのだろうか。

少なくとも途上国の状況を見れば、彼らに何が必要かと言うことはすぐにわかる。例えば食料や衣服、住居だ。でもそうした情報は毎日、ネットでも調べられるのに、そこには分かりきっているものを差し伸べる企業は少ない。

もっとすすむと、東南アジアや中国をはじめとして低賃金で働いてもらっている生活風景を見ても、彼らに何が必要かと思えばいろいろなものが思いつく。でもそれは先進国の論理が働き、彼らに仕事をさせて、報酬を払うことで、その地域に見合ったものを買ってもらうことしかない。いきなり日本人と同じ生活にはならない。これもなぜだろうか。

さて先進国にいると回りの状況を当たり前と思うが、物があふれているがために、あまりにもそれに頼りすぎていないだろうか。いや今は情報にも頼る傾向がある。それはテレビ番組の情報がそうである。その情報だけで状況を判断していることもある。

コミュニケーションは本来、口頭でも会話で成り立つものだ。よって中国人観光客が来ると中国語が話せる従業員を雇うが、日本では日本語が伝わるのに会話もなく買い物が出来たり支払いが出来たりしている。

これがネットでももっとすすんで、ネット上での購入では相手はいない。相手は機械である。会話もなくても買い物ができる。

電話も日本はなぜかテキスト会話が主流である。

本来、この不便さがあって、それに必要なものを供給していけばよかったが、今や狭い部屋にはいろいろなものがそろい、それに頼っている生活がある。

これで経済発展をするということは何を意味するのだろうか。国内需要で農業が取り上げられているが、なぜか漁業や林業はあまり話題にならない。でも借金に頼る生活であれば、別に内需を増やさなくても金で解決できることも事実である。

でも今までは製品を売ってその代わりに食料やエネルギーを得ていたが、その製品が中国や韓国が担当するとなると、日本は今後食糧もかえなくなるのだはにだろうか。

まあそれはいいとしても、今の生活を変えられないというが、何が本当に便利なのだろうか。今の状況が究極なのだろうか。

今後いろいろな便利な生活空間が出来たとき、果たして我々の生活はゆとりが出来ているのだろうか。他が残業でもやって、我々がゆとりのある生活を送っているのであれば、あるいは社会保障も充実していれば問題ないが、今は自分たちで作らないと便利な社会ができないということにあっている。店も24時間あけていないとやっていられない。残業もしなければならにない。

これで便利なものを買って果たしてそれを十分使った生活って出来ているのだろうか?

それよりも何もなくただぼっといているほうがよっぽどストレスもなく個人主義からすれば。自分の時間を自由に使えるという意味では一番のゆとりなのかもしれない。

不便さをいかにつくるかが今後必要になるのではないだろうか。

.

TWITTER

Comment on this Article:

AdvertisementAdvertisementAdvertisementAdvertisement

Related Posts

Archives